本堂奥の薬師堂には町指定文化財の薬師如来坐像が安置されている。寄木造りの金泥像。像高72cm。もと漆原村の万福寺(龍徳寺の末寺)の本尊であったが、同寺の廃寺にともない、明治初期、龍徳寺に移された。薬師堂の左手脇には坐禅堂があり、地元の子どもたちも参禅する。
本堂奥の薬師堂には町指定文化財の薬師如来坐像が安置されている。寄木造りの金泥像。像高72cm。もと漆原村の万福寺(龍徳寺の末寺)の本尊であったが、同寺の廃寺にともない、明治初期、龍徳寺に移された。薬師堂の左手脇には坐禅堂があり、地元の子どもたちも参禅する。
本堂中央の須弥壇には、本尊の釈迦牟尼仏、脇侍として日光月光菩薩の三像が祀られている。
旧専門僧堂と昭輝学館の跡地に開山堂・位牌堂が建立されている。開山堂は二階建て建物の吹き抜け部分に、曹洞宗開祖・高祖道元禅師、開山・端翁玄鋭禅師、二世・華翁順侃禅師(かおうじゅんかんぜんじ)の三像が荘厳に祀られている。
当時三十世・蒔田賢牛が、昭和4年4月、私財を投じて同寺院内に「昭輝学館」と「専門僧堂」を創設した。専門僧堂は全国でも数少ない曹洞宗の僧侶の養成所。昭輝学館は地域の青少年に中等程度の学力と現代常識を得させるために併設された。多くの向学心ある人材を育てたが、戦争が激化した昭和20年閉校。
当寺は伯耆三十三礼所の第二十八番である。この礼所は、会見郡石田村(現南部町田住)の吉持家第5代甚右衛門によって、延享7年(1744)開設された。堂の正面の額には、米子を代表する商人の鹿島治郎右衛門(長智)筆による御詠歌が書かれている。
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